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松江地方裁判所益田支部 昭和39年(わ)23号 判決 1969年7月28日

被告人 長藤慶治

大二・七・三〇生 アパート管理人

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実の要旨は、

主たる訴因として、

被告人は自動車の販売修理業を営んでいたものであるところ昭和三七年一〇月中旬頃、益田市大字益田ロ一、八四八の二富士車輛株式会社から軽四輪車コニー一台を河野守男に販売斡旋をした際、同社専務取締役椋木サダメに対し、右コニー代金三一〇、〇〇〇円のうち、中古原付自転車ホンダカブ一台を評価額金二〇、〇〇〇円で下取りすることとし、それを被告人において売り捌いたうえ、代金支払いをなす旨約束したが、右下取車はその現物がなく、代金支払いに窮したたえ、同月二九日頃、鹿足郡六日市町大字七日市所在の被告人事務所において、行使の目的をもつて約束手形用紙に坂崎豊美の氏名を冒書して、その名下に「坂崎」名義の有り合せ印を押捺し、もつて同日付、同人振出名義金額金二、〇〇〇円のもの二通、同金四、〇〇〇円のもの二通、同金一〇、〇〇〇円のもの一通、合計五通の約束手形を偽造し、その頃、前記富士車輛株式会社において椋木サダメに対し真正に成立した手形のように装い、前記下取車販売代金支払いのため、これを一括交付して行使し、右サダメをして右手形の各支払期日には、その金員支払いを受けうるものと誤信せしめ、因つて右手形金合計金二二、〇〇〇円の支払いを免れ、もつて財産上不法の利益を得たものである。

予備的訴因として、

被告人は自動車の販売修理業を営んでいたものであるところ昭和三七年一〇月中旬頃、益田市大字益田ロ一、八四八の二富士車輛株式会社から軽自動車コニー一台を河野守男に金三一〇、〇〇〇円で販売斡旋をした際、河野守男が頭金として現金三〇、〇〇〇円を支払い、約束手形金額合計金二六〇、〇〇〇円を振出し、被告人が残代金二〇、〇〇〇円を支払うこととしたが、同会社専務取締役椋木サダメに対し、右頭金、約束手形とともに残代金二〇、〇〇〇円を一括交付できなかつたことから、下取車があるように装い、河野守男から中古原付自転車ホンダカブ一台を評価額金二〇、〇〇〇円で下取りすることとし、被告人においてこれを売り捌いたうえ、代金の支払をする旨申し騙き、同月二九日頃前記会社において椋木サダメに対し、その頃作成した同日付坂崎豊美振出名義の金額金四、〇〇〇円の約束手形二通、金額金二、〇〇〇円の約束手形二通、金額金一〇、〇〇〇円の約束手形一通が融通手形であるのにこれを秘し、前記下取車を坂崎豊美に販売し、その代金支払いのため同人より振出しをうけた旨申し騙いて交付し、同女をしてその旨誤信させ、前記残代金二〇、〇〇〇円の支払を免れて財産上不法の利益を得たものである。

というにある。

先ず主たる訴因につき判断する。

被告人の当公廷における供述、被告人の司法警察員に対する供述、(中略)を総合すると次の事実が認められる。即ち、被告人は昭和三七年一〇月頃、自動車の販売修理を業としていたものであつたところ、同月中旬、山陰ジヤイアント株式会社が、富士車輛株式会社を代理商として、河野守男に軽四輪自動車コニーAF七型を金三一〇、〇〇〇円で売却するにつき、右両者間の売買契約締結に尽力したのであるがその際、被告人と右河野守男との間には、右売買代金のうち金二九〇、〇〇〇円は同人が自ら出捐するか、残額金二〇、〇〇〇円については被告人が同人にかわつて前記売主たる山陰ジヤイアント株式会社に支払う旨の合意が成立した。被告人は右合意を履行するため、右会社と右河野守男との間の売買代金の残金二〇、〇〇〇円の支払方法につき、実際に当時、右河野は原動機付自転車を所有してはいなかつたが、同人所有の原動機付自転車一台を金二〇、〇〇〇円と評価し、これを右代金残額の支払にかえて右会社に譲渡する旨の合意をさせたうえ、被告人は右原動機付自転車を坂崎豊美に売却するにつき尽力したこととして、それが代物弁済か単なる支払のためであるかはさておき、売買代金支払いの方法として、同月二九日頃、いずれも振出人を坂崎豊美、振出日を昭和三七年一〇月二九日、支払地および振出地を島根県鹿足郡六日市町、支払場所を山陰合同銀行日原支店七日市出張所とし、金額金四、〇〇〇円のもの二通につき満期を昭和三七年一一月三日と同年一二月三〇日、金額金二、〇〇〇円のもの二通につき満期を昭和三八年一月三〇日と同年二月二八日、金額金一〇、〇〇〇円のもの一通につき満期を同年三月三〇日とする約束手形五通を作成し、名宛人白地のまま前記山陰ジヤイアント株式会社の代理商である前記富士車輛株式会社の業務を執行する椋木サダメに交付した。そこで、本訴因に記載されるように、被告人が右坂崎豊美名義の約束手形を振り出すについて、何らの権限もないのに同人の名を冒書し、その名下に有り合わせ印を押捺して、これを作成したとの点について検討する。この点の立証のための証拠として、検察官は鑑定人永田睦作成の鑑定書の証拠調を請求し、同鑑定書には、前記五通の坂崎豊美振出名義の約束手形の振出人名下に押捺された印影は、坂崎豊美が所持する印顆により押捺されたものではない旨の記載がある。しかし、これに対し、鑑定人佐々木寛作成の鑑定書および鑑定人荒井晴夫作成の鑑定書には右各約束手形の振出人名下の印影はいずれも坂崎豊美所持の印顆によるものである旨の記載があるので、前示永田鑑定書が本件公訴事実を証明するに足るものであるか否かについて審究しなければならない。右永田鑑定書が前叙結論を出すにいたつた根拠は、右約束手形に押捺されている印影と、坂崎豊美所持の印顆による印影とは、その輪郭においては著しい相違はないが、「坂」の字について三部分、「崎」の字について二つの部分において差異があり、特に「崎」の字の二画の入筆部が右約束手形上のものはかなり彎曲しているのに対し、坂崎豊美所持の印顆による印影は殆ど彎曲を示していないというにある。一方佐々木鑑定書においては、右両印影における「崎」の字の二画の入筆部の相違を認めながらも、右坂崎豊美所持の印顆は手彫りによるものであつて、彫刻の際にできた各印顆に特有の疵は両印影に共通して認められ、かつ、前記約束手形五通にみられる印影はいずれも同一の印顆により作り出されたものと認められるが、右印影相互の間においても「崎」の字の二画の入筆部の彎曲には差異が認められ、結局この彎曲部分は印肉中にあつた繊維様のものが印顆に付着したためにできたものと推定し、また荒井鑑定書においても、両印影は前記「崎」の字の二画の入筆部分を除いて類似の個所が多く、同部分の彎曲も両印影の重合部が異なつていないところから、宿肉によつて作出されたものと考えられ、また右印顆は手彫りによるものであるところから、両印影が酷似の異なつた印顆によつて押捺されたものではなく、同一の印顆によるものであるとの結論を出しているのである。右鑑定書を比較するとき、後二者の鑑定は、両印影の類似部分の存在を単に文字の輪郭の比較対照によつてのみ判定せず、前記印顆が手彫であることに着目しており、また「崎」の字の二画の入筆部の不一致についても、更に一歩進んで、その相違の生じた原因を考究しており、その思考過程において永田鑑定書よりも詳細かつ合理的であるといわなければならない。また被告人の当公廷における供述、第四回公判調書中証人坂崎豊美供述記載、第五回公判調書中証人藤原伸広供述記載を総合すると次の事実が認められる。即ち、昭和三六年一二月頃、藤原伸広が原動機付自転車一台を買いうけるに際し、被告人はその売買契約締結に尽力したのであるが、その際被告人は右藤原から、売買代金支払のための約束手形を作成することを依頼され、その作成のため、右藤原および保証人としての坂崎豊美の印顆を手渡された。してみれば、右認定の事実に前示佐々木、荒井両鑑定書の記載を総合すれば、本件約束手形は、被告人が坂崎豊美の印顆を保管する間に、同印顆を用紙面に押捺することによつて作成されたものであろうことは容易に推認することができ、少くとも本公訴事実中被告人が坂崎豊美の有り合せ印を使用して本件約束手形を作成したとの点は右推認の事実と明らかに反していて到底これを認めることはできない。右のとおり、本件公訴事実中、約束手形の偽造の方法が認められない限り、本訴因においては偽造の事実そのものを認めることができず、したがつて、右偽造の事実を基礎とする偽造有価証券の行使、同行使にもとづく詐欺の事実についても当然証明なきに帰する。

もつとも、前叙認定の事実のもとにおいては、被告人が前示河野守男の山陰ジヤイアント株式会社に対して負う債務のうち金二〇、〇〇〇円の弁済方法として右坂崎豊美名義の約束手形を作成したことは、右坂崎の印顆の使用について与えられた権限を踰越しており、右の趣旨に訴因を変更すれば或いは右有価証券の偽造について、被告人は有罪となるかの如くにも考えられる。この点につき、被告人は当公廷において「昭和三六年のくれごろだつたと思いますが、藤原伸広さんに単車を一台売ることになりました。当初は月賦販売ということでしたので保証人をいれたり契約書や約束手形をつくつていただくために判が必要でしたので、藤原さんは大工でそのころ柿木の方へ仕事に行つておられましたので途中寄られて藤原と坂崎の判を二つ持つてこられました。私はもう話がきまつているから新車に乗りかえていきなさいと車を渡したが、そのときに当時私は処理できない下取車を沢山持つていて資金ぐりに困ることがわかつていましたので、支払いは自分がやりますから五万円程度の手形を貸してくださいと申しまして、藤原さんもいいですよということでしたので判を預りました。」「あの人(藤原伸広)を坂崎さん坂崎さんと呼んでいたものですから、うつかり坂崎の判を押したのです。」と述べている。これに対して、右藤原伸広の検察官に対する供述調書中には同人が被告人と取引をしたのは、原動機付自転車の売買に関してだけで、それ以外の関係は全くなく、被告人から、被告人に金融を得させるため約束手形を振り出することをたのまれたり、同人名義の約束手形の振出を承諾したこともない旨の記載がある。しかしまた、第五回公判調書中証人藤原伸広供述記載には、同人は被告人から、同人が原動機付自転車を被告人の媒介により買いかえる頃、被告人に金融を得させるため同人名義の約束手形を振り出すことを承諾して欲しい、手形金の支払は被告人において行なう旨の話があつたので、同人は、大きな金額では信用がないから駄目だが、小さい額なら良いと返答した旨の部分があつて、前記検察官の面前調書の内容と明らかに相反している。そこで、右両供述のうちそのいずれが信用できるかについて検討すると、右検察官の面前調書中には、藤原伸広が兄である坂崎豊美から同人の印顆を預つてこれを約束手形に押捺したことは全くないとの部分があるが、同部分は明らかに第四回公判調書中証人坂崎豊美供述記載の一部と相反し、また同面前調書は全体として、本件約束手形に押捺された印影が右坂崎豊美所持の印顆によつて作出されたものでないとの前提にたつて供述がすすめられていることが明らかであるが、かかる前提が直ちに信用できないことは前叙のとおり佐々木、荒井両鑑定書から明らかである。これに対し、前記第五回公判調書中証人藤原伸広供述記載の部分は、前叙その真実性を認めうる佐々木、荒井両鑑定書、第四回公判調書中証人坂崎豊美供述記載と矛盾せず、証人藤原伸広の当公廷における供述とも時日の経過による記憶の喪失のための相違はあるとしても、その大綱において合致する部分が多く認められる。もつとも証人藤原伸広の当公廷における供述では、同人が被告人に約束手形の作成を許諾したか否かの点につき「何かで要るから貸してくれんかということでしたが、別にそのことによつて、はつきり問いつめて聞いたわけではありませんん。」ときわめて曖昧な表現になつており、また同供述によれば、同人は約束手形その他金銭の支払義務を負担する旨を表示する書面の作成には全く無関心かつ無知であつて、前掲検面調書および公判調書中にある融通手形という言葉の意味を本件との関連において正確に理解したうえで供述しているかどうか疑問がないではないが、同人の当公廷における供述と、前示第五回公判調書における供述記載を総合してみると、少くともその方法の如何をとわず、被告人に金融を得させるために自己の名前の使用を許諾していた事実はこれを認めることができるといわなければならない。

以上の諸点からみて、前掲検察官の面前調書よりは、右公判調書の記載により多くの真実性を認めることができ、これに反する前記検察官の面前調書のみをもつてしては被告人が金融をうるため約束手形を作成するにつき藤原伸広から権限を与えられていなかつたとの点を立証するに充分でなく、また本件においては他に右事実を立証するに足る証拠はない。次に本件においては、被告人は坂崎豊美名義の約束手形を振り出しているのであるか、この点につき、前叙のとおり、被告人は藤原伸広から約束手形作成の許諾を得たが、同人を坂崎豊美と誤認し、たまたま右藤原から前叙原動機付自転車の代金支払の保証人とするため手渡されていた坂崎の印顆を使用して本件約束手形を作成したと述べ、右約束手形の偽造について、その故意を否定するので、この点について検討する。第四回公判調書中証人坂崎豊美供述記載および第五回公判調書中証人藤原伸広供述記載によれば、同人らは兄弟であつて、藤原伸広はもと坂崎姓であつたが、その後養子縁組をして藤原姓を名のつたもので、現在でも坂崎姓で呼ばれることがあること、両人はときおり互に相手に金融を得させるため、印顆の貸し借りをしたことおよび両名とも互に近所で農業を営み、農閑期には出稼ぎに行くという酷似した生活を行なつていることが認められる。してみれば、被告人としては、前示認定のとおり、藤原伸広からその氏名を使用することにつき承諾を得、しかも手許に同人の印顆もあるのに敢て坂崎豊美名義の約束手形を作成する必要性もなく、また都市からはなれた農村地帯の特殊性を考慮すれば、被告人が右藤原と坂崎を誤認したとの弁疏も不自然ではなく充分首肯しうるところである。したがつて、右認定の事実からみて、たとえ当裁判所において前叙のとおり訴因の変更を命じてみても、その変更後の公訴事実について被告人を有罪とするに足る証明が存するわけでもない。

次に予備的訴因について判断する。

同訴因中、被告人が約束手形を作成するまでの経緯および交付の状況に関する部分は、前叙主たる訴因に対する訴因に対する判断において認定したところとその大綱において同一である。そして本予備的訴因は、右事実のもとにおいて、本件約束手形が融通手形であることを告げないで交付したことが違法な欺罔行為となるとするのであつて、被告人が右約束手形を富士車輛株式会社専務取締役椋木サダメに交付するに際し、特にこれが融通手形でない旨を告げなかつたことは被告人および証人椋木サダメの当公廷における供述から明らかである。弁護人はこの点につき、融通手形を商業手形と詐ることで詐欺罪が成立するか否か疑問であり、特に手形割引の場合はさておき、単に代金の支払方法として融通手形を交付したことによつて詐欺罪を認めた裁判例は存しないと主張する。本予備的訴因において使用されている融通手形なる言葉の意味は、同訴因の他の部分と対比するとき振出人において何らの債務も負担していないのに、単に受取人その他の者の債務の弁済に使用させる目的を以て振り出された約束手形を称するものと解される。かかる目的で振り出された約束手形を交付するに際し、その事実を黙秘することが直ちに詐欺罪となるか否かは一概に判断することはできないものと解する。けだし、右の場合にあつて詐欺罪が成立するためには、約束手形を交付するものにおいて当該事実を相手方に告知する義務を負わなければならず、かかる告知義務は商取引においてはその取引当事者のおかれたそれぞれの状況に応じて、その存否が考慮されなければならないからである。そこで本件について約束手形が交付された当事者間の関係をさらに詳細に検討すると、<証拠略>によると次の事実が認められる。即ち、山陰ジヤイアント株式会社は愛知機械工業株式会社の製造する軽四輪自動車の販売を行なつているものであるが、島根県益田市付近の住民に対する右自動車の販売に関しては、その権限をすべて富士車輛株式会社に与えている。しかし、右富士車輛株式会社が自動車を販売しても、代金支払のために振り出された約束手形の受取人、領収証および納品書の発行者はいずれも右山陰ジヤイアント株式会社であり、また売渡先からの売買代金の回収が不能となつた場合、その損失は同会社に帰属する。また被告人は右軽自動車の販売に関し右富士車輛株式会社から被告人の行為がそのまま同社に効果をおよぼすまでの権限は与えられていないが、同社の販売する自動車の売買契約を締結させることに尽力し、これを成立させることにより、報酬を受けとることになつている。以上の諸点からみれば右軽自動車の売買の当事者はあくまで山陰ジヤイアント株式会社と自動車の使用者であつて、富士車輛株式会社は右会社の代理商であり、被告人は代理商としての富士車輛株式会社したがつて山陰ジヤイアント株式会社に対して仲立人の地位にたつものということができる。そして、被告人の媒介により成立した本件河野守男に対する自動車の売買関係も右の例外ではない。右の関係の下において自動車が販売され、その買受人が所有している中古車が売買代金の一部の弁済にかえて譲渡される場合には当然当該中古車の所有権は右山陰ジヤイアント株式会社に帰属し、被告人がこれを他へ転売する場合には前示同様の関係で仲立人としてその売買契約の締結に尽力するということになる。けだし、いわゆる下取車は基本的な法律関係たる自動車の売買に際して取得されたもので、当事者間において特段のとりきめの認められない本件においては、右下取車の取りあつかいに関し当事者間の法律関係が変更するとは考えられないからである。したがつて、被告人は、軽四輪自動車にしろ、その売買代金の代物弁済として受け取つた原動機付自転車にしろ、その売却斡旋については前記山陰ジヤイアント株式会社およびその代理人である富士車輛株式会社に対しては仲立人としての権利と義務を有するものといわなければならない。ところで、仲立人は本来商取引を行なう者の相手方の発見を容易にし、かつその取引を円滑に行なわしめるところにその存在の意義があるのであるが、その関係は信頼忠実によつて維持せられるものと解せられ、仲立人の負う特殊な義務もこの点から理解されなければならない。しかるところ商法第五四六条は仲立人に結約書の作成、交付の義務を定め、その結約書には当事者の氏名および行為の年月日、要領を記載しなければならない旨、また同法第五四九条は当事者の一方がその氏名の黙秘を命じたときは仲立人自らが相手方に対し履行の責に任ずる旨を規定する。右の規定からみれば、仲立人は取引の当事者に対しかなり強い取引内容の開示の義務を負つているのであつて、特段の事情の認められない本件においても、右仲立人の本人に対する義務は同様であると解されるところ、被告人が仲立人としての地位にたちながら、右富士車輛株式会社に対し、下取車を受け取りもせず、したがつてその売却がなされていないのに、これがなされたように装い、右取引にもとづかない他人名義の約束手形を交付するのは明らかに右仲立人として、本人との信頼関係を破壊し、その忠実義務に反し、仲立人の本来有する社会的機能を甚だしく乱すものであつて、違法な欺罔行為であるといわなければならない。

そこで進んで本予備的訴因中、被告人が本件約束手形を交付したことにより同金額の支払を免れて財産上不法の利益を得たとの点について判断するに、前叙認定のとおり被告人は本件軽四輪自動車或いはその下取車たる原動機付自転車の販売に関してはあくまで仲立人の地位にあるものであつて、売買の当事者の地位にはなく、前記山陰ジヤイアント株式会社或いはその代理人たる富士車輛株式会社に対して売買代金の支払について直接何らの債務も負担しているものではない。また前叙認定の被告人と河野守男間の、軽自動車の買受代金中金二〇、〇〇〇円を被告人が同人にかわつて支払うとの合意も、単に右両者間においてなされたものであつて、前示山陰ジヤイアント株式会社又は富士車輛株式会社は何らこれに関係がなく、したがつて、被告人に右自動車の売買残代金の支払につき、河野守男に対して債務を負担させる結果となることは格別、右二社に対し何らの債務を負担させることにはならない。してみれば、被告人はたとえ右約束手形を富士車輛株式会社の業務を執行する椋木サダメに交付したからといつて、その代金の支払を免れることにもならなければ財産上不法の利益を得ることもないわけである。

もつとも、右認定の事実によると、本件約束手形を交付したことにより、被告人自身が財産上不法の利益を得ていないとしても、右河野守男をして財産上不法の利益を得さしめたものであつて、その趣旨に訴因を変更すれば或いは有罪の判決をうけることになるかの如くにも考えられる。ところで、本件のごとく約束手形の交付によつて河野守男に利益を得さしめる場合としては、約束手形の交付によつて(1)同人をして債務の弁済を免れしめることか或いは(2)同人をして債務の弁済の猶予を得させることである。先ず右(1)の場合についてみるに、約束手形の交付によつて債務の弁済を免れるためには、その交付自体が債務の弁済に代えて行なわれなければならないと解するところ、証人門脇敏雄の当公廷における供述からも明らかなように通常の商取引においては約束手形は債務の弁済のために交付されるのであつて、右交付をもつて直ちにその原因関係たる債権が消滅してしまうものではなく、本件も亦、その例外ではない。したがつて、本件約束手形の交付をもつて何人も債務の弁済を免れるものではなく、この点ですでに右(1)の事実は認められない。次に右(2)の場合についてみるに、本件においては、問題となつている前記軽自動車の売買代金のうち金二〇、〇〇〇円の支払につき定つた弁済期があり、本件約束手形の交付によつて前記椋木サダメその他弁済を猶予する権限のあるものから弁済猶予の意思表示を得たとの点については何ら立証がないのみならず被告人および証人椋木サダメの当公廷における各供述および椋木サダメの検察官に対する供述調書によれば次の事実が認められる。即ち、被告人が本件約束手形を右椋木サダメに交付したのは昭和三七年一〇月末であるところ、本件自動車の売買契約は既に同月中旬に行なわれ、その際に右自動車の代金のうち金二〇、〇〇〇円については中古の原動機付自転車をもつて代物弁済をする旨の合意がなされている。ところが、被告人が媒介した売買契約において売主たる山陰ジヤイアント株式会社がその代金の一部の支払にかえて中古車を譲りうける場合、当該中古車の売却の媒介は、従来被告人のみがこれを行なつてきた。また右中古車の売却の媒介につき、被告人には一定期限までにこれを行なうべき義務もないうえ、売買契約を成立させる際にも、その弁済方法について特段の制限がなく、ただ富士車輛株式会社は被告人に、売買代金を約束手形をもつて支払う場合には、満期まで金一〇〇円につき一日金三銭五厘の割合による利息を加算すべき旨を指示しているのみである。右認定の事実によれば、たとえ、右河野守男が中古の原動機付自転車を所有しないのに、これを所有しているかのように装い、これを代物弁済として前記会社に譲渡し、更に被告人において右中古車を他へ売却したうえ、その代金をもつて軽自動車の売買代金の弁済の一部にあてる旨の合意が成立したからといつて、右中古車の売買代金を弁済にあてる時期につき何らの制限もないことが明らかであつて、被告人が右約束手形を椋木サダメに交付したことにより、右河野守男が何ら弁済の猶予をうけることにもならないわけである。したがつて当裁判所において右の趣旨に訴因の変更を命じてみても、結局その公訴事実につき立証がなされたということにはならない。

以上検討してきたところによれば、被告人は本件本位的訴因についても、予備的訴因についても犯罪の証明がないことになるから刑事訴訟法第三三六条にしたがつて無罪の言渡をしなければならない。

よつて主文のとおり判決する。

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